許 世楷
近現代史の節目
228事件は台湾人近現代史の節目を型作った。1895~1945年の日本統治下を近代史とすれば、1945年中華民国蒋介石軍の台湾占領から近現代史交替期に入る。日本統治下において中国と隔離していた台湾の近代化は、第二次世界大戦中までにすでに中国人と異なる独自の台湾人の実態を形成していたが、多くの台湾人はまだそれを意識せず、依然として観念的な中国人意識の残像を持っていた。とくに戦後日本人が立ち去り、中国人が台湾を接収する時点では、「祖国復帰」ということでその観念的中国人意識の一時的高揚が見られた。しかし実際の蒋介石軍占領に出会うと、中国人と自らの相異をあらためて発見する。それから台湾人は漸次観念的中国人意識から脱却し、独立した台湾人意識を形成し始める。その結果が1947年の228事件の発生であった。つまり一年と六か月の経験で台湾人はその相異を発見したことを行動で表示するわけである。この一年六か月が台湾人近現代史交替期の節目に当たる。
近代化の過程
日本統治下において台湾人は近代化の過程を歩んだ。とくにそれが中国人と異ならせていったのは、法治、教育、医学、各種インフラストラクチャーなどの洗礼によるものである。日本の台湾統治は本来日本の国益を目的としたものであるが、台湾人の生活文化を大きく変えた。日本人は主として真面目にその公的目的を遂行し、1945年に来た中国人が極端にその私的利益を追求したのと、はなはだしく異なっていることを台湾人は実際に経験した。日本人は当局の決めた社会生活のルールを自他共に守る法として忠実に法治を旨とした。それに引き換え中国人は、法は統治の客体である台湾人を縛るものとして用い、自らはそれを守る必要のないものとし、法治を無視していわゆる人治を重んじた。それは社会生活における行為の結果を予測し難いものとならしめ、戦後の中国人統治は台湾人に不安定な生活をもたらし、戦前の日本人統治の評価が高まることになる。加えて戦後の中国人統治が台湾人に対する軍閥の略奪と異ならず、戦前の日本人統治は厳しい植民地統治であるとはいえ、法治、教育、医学、各種インフラストラクチャーの向上をもたらしている。ここに統治者としての善玉日本人、悪玉中国人の評価が台湾人の間に定着していくことになった。
法治、教育、医学、インフラストラクチャーの向上
ちなみに法治は、社会生活の安定をもたらしただけでなく、その後の台湾の民主主義、自由主義、人権発展の基礎にもなった。教育について、日本植民地統治下では台湾人を入学させる国語学校、医学校を優先的に設立した。前者は多くの公学校教員と初級行政人員を養成し、後者は多くの医業従事者を生んだ。なお本来この教育は教員、行政人員、医業従事者を培養することが目的であったが、ともなって日本語をも普及させ、結果として一般的文化向上にも貢献したし、また台湾人にも自らの権利に目覚める知的手段をもたらした。1921年に結成された台湾文化協会の構成員の多くが国語学校医学校卒業生であることがその顕著な例である。さらに医学校は台湾の医療水準を高め、衛生環境を改良し、台湾を生活のし易いところに変えた。インフラストラクチャー建設では、南北鉄道縦貫線が台湾の生活一体化を促進した。中部日月潭水力発電所などは産業発展、また生活の便利を供給した。台湾建設について日本で有名なのは総督府技師八田与一氏の貢献である。これは彼が熱意を以って烏山頭ダム建設の設計監督を担当し、台湾中南部の広範囲にわたる不毛の地を大穀倉地帯に作り替えた業績を指す。これら物質上の建設は政治的評価と関係なく肯定しやすいので、今の教科書にも記述され、分かりやすい善玉日本人の勲章の役割を果たしている。
蒋介石軍法治の破壊例
法治という現代社会生活安定の基礎をなす重要事が、台湾の戦後中国人統治ではどうであったのか、228事件における事例を挙げると次のとおりである。
王育霖氏は台南出身者、戦前京都地方裁判所検事を勤め、戦後新竹地方法院検察処検察官に任命されたが、新築市長郭紹宗(陸軍少将)のアメリカからの救援粉ミルク横領事件を追求すると、かえって郭らの動員した警察官の反撃包囲妨害に遭った(新竹事件ともいう)。王は辞職を余儀なくされ、弁護士を開業するまでの間、台北にある建国中学や延平学院の教員を務めた。後228事件最中の3月14日、アメリカ駐台北副領事カール(George Kerr)に会いに出かけようとしている時に、台北の自宅で逮捕され行方不明となった。西本願寺に収容されたことまでは分かっているが、遺体は発見されていない。郭らの画策によるものといわれている。
228事件前、1946年5月台中県警察人員許宗喜が同県参議院施江西医師に傷害罪で提訴され、出頭を拒否。11月台中地方法院は逮捕状を発給、同法院典獄長頼遠輝および法警17人を派遣して逮捕に向かわしたところ、台中県知事劉存忠(陸軍少将)の部下警察局長などは許を庇い、来援者北斗区警察署長林世民は頼などに銃撃を加えてその中の一人を負傷させ、さらに頼などを拘束し続けた(員林事件ともいう)。後に林世民は懲役5年の刑を言い渡された。この事件調査を担当した台湾高等法院(在台北)判事呉鴻麒は、228事件中の3月13日高等法院において勤務中、正体不明の人員2人によって強制的に連れ出され、16日に死体が南港橋たもとで見つかった。劉らの画策によるものといわれている。
つまり王氏、呉氏はともにいかなる法律にも触れていないにも関わらず、私的報復に遭ったわけである。さらに加害画策者はともに軍人出身者であり、そこからも当時の前近代的中国の軍閥統治の一端がうかがえる。このようにして中国人の法治無視統治は極端な恐怖政治に連なり、228事件後の社会不安をますます醸し出し、台湾人に悪玉中国人を強調する結果となった。
ちなみに上記アメリカ副領事カールは、第二次世界大戦前台北高等学校教員、戦中アメリカ海軍情報将校を経歴していた。1965年〝Formosa Betrayed"をアメリカで出版(2006年には日本でも『裏切られた台湾』として翻訳出版)、戦争前後の記録であるが、国民党政権による過酷な台湾支配を批判、とくに228事件の虐殺を描写、国民党当局からその公敵とみなされた。
また上記呉鴻麒は中壢出身者、その双子の弟医師呉鴻麟の長男呉伯雄は、若くして国民党籍台湾省議会議員となり、国民党主席にまでなる。それ故呉鴻麒夫人楊毛冶は228事件後甥呉伯雄との会見を終始拒否した。いかに228事件の社会的衝撃が大きなことかが分かろう。
台湾独立運動の原点
228事件後蒋介石軍のさらなる恐怖政治に対して、寥文毅、謝雪紅などは香港に亡命して抵抗運動を継続する。その中で寥文毅は台湾独立を主張し、香港から東京に基地を移して台湾共和国臨時政府を樹立、その大統領に就任した。さらに東京ではやはり228事件後日本に亡命した既述の王育霖の弟王育徳を中心として、1960年2月28日台灣青年社が創立され、隔月刊雑誌『台湾青年』が発行された。その雑誌第六号が世界初の228事件特集であった。台湾青年社は発展して現在の台灣独立建国聯盟になる。いかに台灣独立運動が228事件を原点としているのかが分かろう。台湾人は228事件で中国人と異なることを発見し、台湾独立運動が始まるのであった。ちなみに台湾独立運動とは、台湾に独立した国家を建立し、その国家の独立を維持していくという台湾人の運動である。
上記謝雪紅は彰化出身者、日本統治下の1928年上海で台湾共産党の結成に参加、党員活動により日本当局に逮捕され、懲役に付された経歴を持つ。228事件では台中において積極的に国民党に抵抗したリーダーの一人であった。彼女は香港に亡命後、寥文毅とは対照的に親中国路線を取り、1948年さらに中国に入り、中国共産党幹部の道を歩む。しかし右派的つまり台湾人自主の立場を取りすぎると見なされ、いわゆる文化大革命においては「右派分子」、「反革命分子」、「地方民族主義者」の批判を受けて、闘争の対象とされ、1970年北京で逝去した。
島内においても蒋介石軍の統治に対して抵抗運動が再起する。しかし蒋介石軍の厳しい反台独、反中共の独裁政治に直面してこれは民主化運動の形をとることになるが、それは実際には台灣独立運動、中国共産党運動をも内包するものであった。始めは党外運動、後1986年9月に民主進歩党が結成されて、その党がこの民主化運動のリーダーシップを担うと、この運動は反中共、親独立の色彩が強まる。また前記島外運動と合わさって、これら島内外抵抗運動は国民党政権からの政治犯救援にも苦慮せざるを得ず、自由主義、人権、法治について深く思考し実践することを促される一方、国際的世論を喚起するために運動の島内外連携をも促した。
他方、中華人民共和国が漸次発展し中華民国の滅亡が明確になってくると、中国共産党運動は漸次中国の台湾併合運動となり、民主主義、自由主義運動に背反していくものとなった。そして中国国民党も台湾の民主化、独立運動の進行によって内外で孤立していくと、漸次反中共から親中共に転向する。
それに対して台湾独立運動は、相変わらず民主主義、自由主義、人権および法治をそのバックボーンとしていることを、ここで確認して、本論を結ぶことにしたい。